top of page
indigo55のスタート
藍染めとミシン縫製のきっかけ

2010年末に次の仕事の事を考えずに会社を辞めて人生のリスタートを切った2011年1月、当時48歳。

毎朝、歯磨きをしながら「これから何をして生きて行こう・・・」と希望より不安が勝っていた。
春が近づいた3月11日、佐島漁港に魚を買いに行った後に小安の露店野菜売り場で店主のオッチャンと世間話をしていた。
その時、地面がゆらゆらっと長い間揺れた。
「けっこう長く揺れたね、震源はどこだろう」と、オッチャンがそばに停めていた軽トラのラジオを付けた。
東北地方が震源の地震、東日本大震災だ。

 

私は会社員だった頃、日本各地へ長期滞在の仕事が多かった。
その中の一つ岩手県大船渡市に1か月ぐらい連泊の長期滞在の仕事をした時に多くの地元人の仲間が出来た。
旅行にも行き、手紙やメールの付き合いも続けていた。

その仲間の地域を巨大地震が襲ったのだ。

​無事だった大船渡の仲間とようやく連絡が取れた時に思った「このタイミングで無職とは、何かに導かれたのか」と。

1年間就職活動をしながら私の地元の仲間に協力をしてもらった支援物資を大船渡・陸前高田に何回も届けた。
大船渡には、会社員だった頃の長期滞在でお世話になった仲間たちの中に寿司屋があった。
そこの大将は店を津波で流されたが、秋には自力で店舗を再開しようとしていた。
それを聞いた私は、地元の仲間に「何か開店祝いを渡したいが、いいアイデアを出してくれ」と相談した。
「寿司屋と言えば暖簾(のれん)だろ」
「暖簾と言えば藍染め暖簾だろ」
「よし、それでいこう」
「ところで藍染めって?誰が染めるの?」
「言い出しっぺはお前だろ、お前が染めろ」

染色の"せ"の字もしらない私が藍染めをスタートした瞬間だった。
ネットで藍染め方法や染料を検索し、たどり着いたのが京都の染料屋さん。
電話でレクチャーして頂き、染料を購入。
洗面器の様な器でチャプチャプと初藍染め開始して暖簾サイズの藍染め生地が出来上がった。
次に、近所の小料理屋に見本となる暖簾を貸してもらって地元の仲間に藍染めした布を渡してミシン縫製をお願いした。
予想以上にイイ感じに仕上がった暖簾を持って、物資支援を届ける時に寿司屋に暖簾を渡して作戦終了。
寿司屋の女将さんが用意していた新品の暖簾を下げて私たちの暖簾を掛けて「あら、いいじゃない!」と嬉しい言葉を頂いた。
大船渡の寿司屋に納品をする前に、見本を貸してくれた小料理屋に出来上がった暖簾を見せに行った時に
「いい出来じゃないか、うちの店の暖簾も作ってくれ」と言われ苦笑い。
作るとしても、また仲間にミシンを頼むのも申し訳ないが私はミシンなんて使った事がない。
でも無職の今、上手く断れる理由が見つからない・・・私が縫おう。
そう思い、ミシン教室に通い「イケる」と思ったタイミングで家庭用ミシンを購入。
再度、生地を藍染めしてミシンの使い方をネットで調べて小料理屋の暖簾作りが始まった。
ほぼ自己流のミシン作業も何とか無事に終了、義理を果たせホッとした。
その後もネットでミシンの使い方を検索しながら自己流でミシンを練習し、藍染め生地で巾着が作れるようになる。
あの頃は巾着ばかりを作っていた、と言うか、巾着ぐらいしか作れなかったのだ。
そんな時間を過ごしていた時に、この仕事を続けられる原動力になっている言葉がある。
ある人が、巾着ばかり作っている私に「始めた物事は続けなさい、続けていれば必ず誰かが見ていてくれる」この言葉が今も支えになっている。
その巾着を財布代わりに日々を過ごしていると、ある日巾着の作成依頼を頂いた。

しかし、まだ利益なんてありゃしない。
そんな日々を過ごしている中で、巾着を見た人が見た人が「ハンドルを付けて藍染め生地の小さなバッグを作ってくれ」と言われバッグの作り方をネットで調べ、これもまた自己流でバッグ作りが始まる。
少しづつ作れる物が増えてきて、染め作業やミシンが面白くなっていった。
今となってはミシンの台数も増えて生地を染めての物づくり以外に、衣類を仕入れて藍染めで仕上げている。
最近は衣類の縫製にもチャレンジしている。

これが私の藍染めとミシン縫製のスタートからの現在である。
48歳で右も左も分からない"染め"と"ミシン"の世界に突入したが、それが今の生業になっている。
東日本大震災がキッカケで始めた藍染めとミシン、「続けなさい」という言葉を胸に迷走しながらも少しづつ進歩していると思っている。
キッカケな何にしろ、何かに導かれ、仲間たちに恵まれ、仲間たちに育ててもらった藍染めとミシン縫製。
すべての仲間たちに感謝である。
ありがとう。

indigo55 野村敏明

bottom of page